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東京地方裁判所 昭和43年(ワ)6290号 判決

再審原告・六二九〇号事件被告甲野ユキ遺産管理人 甲野咲子

右訴訟代理人弁護士 谷川八郎

同 川合常彰

同 斉藤勝

右訴訟復代理人弁護士 那須忠行

同 谷川浩也

同 木津川迪洽

五〇三〇号事件被告 甲野二郎

右訴訟代理人弁護士 谷川八郎

右訴訟復代理人弁護士 斉藤勝

同 那須忠行

同 谷川浩也

再審被告・六二九〇号事件原告・五〇三〇号事件原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 大崎康博

右訴訟復代理人弁護士 三戸岡耕二

主文

一  本件再審請求を却下する。

二  昭和四三年(ワ)第六二九〇号事件原告の請求はこれを棄却する。

三  昭和四五年(ワ)第五〇三〇号事件被告は同事件原告に対し、別紙第四目録記載の物件の引渡をせよ。

四  訴訟費用中、再審原告兼六二九〇号事件被告と再審被告兼六二九〇号事件原告兼五〇三〇号事件被告との間に生じた分は、これを二分して、その一を前者の、その余を後者の各負担とし、五〇三〇号事件被告と再審被告兼六二九〇号事件原告兼五〇三〇号事件原告との間に生じた分は前者の負担とする。

五  本判決第三項は確定前に執行することができる。

事実

第一はじめに

一  当事者の略称

本件は、当庁昭和四〇年(ワ)第六五四五号事件(以下「原訴訟」という。)の判決に対する再審事件に頭書の(ワ)号両事件が併合されたものであるが、審理中、再審原告であり六二九〇号事件被告であった甲野ユキが死亡し、後記の通り甲野咲子がその訴訟を承継することとなったものである。以下では、各訴訟の原被告としての立場を兼ねて、甲野ユキ、甲野太郎、甲野二郎、甲野咲子の四者をそれぞれ「亡ユキ」(又は単に「ユキ」)「太郎」「二郎」「咲子」と表示することとする。

二  争いのない身分関係

(一)  別紙家系図の通りの親族関係については、各訴訟当事者間に争がない。

(二)(1)  亡ユキは先夫との間に五人の子を成したが、そのうち乙山春夫は昭和三八年一二月四日死亡した。甲野忠義との再婚による子のうち甲野松男、竹男、梅男はいずれも戦前に死亡した。甲野忠助(忠一郎)は昭和二四年八月五日に、また同忠義は昭和二年一二月一日にそれぞれ死亡した。

(2) そこで、亡ユキが昭和四四年一一月二七日死亡した時は異腹の子七人が共同相続人となった。

(三)  亡ユキは太郎を相続人から廃除する旨の遺言を残したが、この問題については家庭裁判所の審判はまだなされていない。

三  中間の争(咲子の適格に関し)

A  咲子

(一) 亡ユキは昭和四四年一一月二七日死亡し、昭和四五年一〇月二六日東京家庭裁判所の審判により、咲子は被相続人亡ユキの相続財産管理人に選任された。

(二) 右管理人には民法第八九五条第二項により同法第二七条ないし第二九条の規定の準用があり、管理人は民法第二八条により同法第一〇三条に定められた権限内の行為については家庭裁判所の許可を要しない。

(三) 本件中、再審事件は、本件建物(後述する。)が太郎の単独所有か亡ユキの遺産として共同相続人七名の共有に属するかという点についての争であり、損害賠償事件は遺産中消極財産の存否の争であって、いずれも遺産の保存行為であるから、咲子は適法な訴訟承継人である。

B  太郎

(一) A(一)は認める。A(二)(三)は争う。

(二) 亡ユキの死亡によって本件両訴訟を承継すべき者は相続人であり、相続財産管理人はその相続人の法定代理人であるに過ぎず、当事者とはなりえない。

(三) 仮に承継人となりうるとしても、自ら再審原告として訴訟を追行することは保存行為ではない。

第二再審関係

一  双方の申立

A  咲子――「原訴訟の判決を取り消す。太郎の請求を棄却する。再審費用は太郎の負担とする。」との判決を求める。

B  太郎――「再審請求を却下する。再審費用は咲子の負担とする。」との判決を求める。

二  再審事由についての双方の主張

A  咲子

(一) 原訴訟は、太郎を原告とし亡ユキを被告とする別紙第一目録記載の建物(以下「本件建物」という。)に関する家屋所有権確認・登記抹消手続請求事件であるが、昭和四〇年八月三日訴状が亡ユキに送達され、亡ユキ欠席のまま結審し、同年一二月三日判決(別紙参照)が言い渡され、同月九日太郎に、同月四日亡ユキに送達があったものとして、控訴期間の経過により右判決は確定した。

(二) しかし、原訴訟の訴状・期日呼出状・判決正本はいずれも亡ユキには送達されていない。即ち、原訴訟の被告(亡ユキ)肩書地としては原告(太郎)と同じ本件建物所在地が表示されていたが、亡ユキは昭和四〇年一月一〇日以降本件建物に居住しておらず、右の訴訟書類はいずれも太郎の妻である訴外甲野竜子(以下「竜子」という。)が送達を受領したものである。よって、原判決には民事訴訟法第四二〇条第一項第三号の再審事由がある。

B  太郎

(一) A(一)は認める。A(二)のうち竜子の受領は認めるが、亡ユキに送達のなかったことは否認する。

(二) 亡ユキは留守勝ちのため息子の嫁である竜子が受領し、亡ユキが常時使用していた仏壇のある部屋に置いたので、亡ユキはそれを読んで了知したものであり、民事訴訟法第一七一条第一項の趣意からも送達は有効である。

三  原判決維持の理由についての双方の主張

A  太郎

(一) 仮に再審事由があるとしても、原判決は次の通り正当であるから、民事訴訟法第四二八条によって、再審請求は却下されるべきである。

(二)(1) 本件建物は太郎所有のものである。即ち、太郎は自己の家族構成を基準に本件建物を設計して建築し、昭和二八年四月六日自ら世田谷区役所に建築確認の申請をなし、昭和二九年四月五日同所に工事完成届をし、亡ユキと相談の上昭和三八年八月二三日太郎名義で保存登記をし、その後昭和三九年三月二日後記の経緯でその登記名義が失われるまで固定資産税も太郎が負担していたのであって、建築以来亡ユキも太郎の所有を認めて本件建物に居住して来た。

(2) ところが、その後亡ユキと太郎夫妻との間に感情的対立を生じたため、亡ユキは太郎の実印を盗用して委任状を偽造した上、昭和三九年三月二日無断で太郎から自己へ本件建物が売買されたものとして所有権移転登記をし、更に同年七月七日には再度太郎の実印を盗用して委任状二通を偽造した上、右所有権移転登記及び太郎名義の保存登記を抹消し、その後同月一七日自己名義の保存登記をした。これを知ったので太郎は本来の権利関係を回復すべく原訴訟を提起したのである。(以上、原訴訟の請求原因)

(三) 仮に咲子の主張する通りの経緯で本件建物が建築されたとしても、右(二)(1)主張の通り太郎の所有者としての行動を許して来たことから明らかなように、亡ユキは太郎のために本件建物を建築したもの、或は、建築完成と同時にこれを太郎に贈与したものである。

(四) 仮に本件建物が亡ユキの所有のままであったとしても、太郎は昭和二八年九月三〇日以来これを自己の所有として平穏公然に占有して来たし、前記一(1)の通り所有者として行動したことが明らかなように占有の初に善意無過失であったから、その後一〇年で時効が完成したところ、太郎は訴訟代理人により昭和四六年三月二六日の本件口頭弁論期日に右取得時効を援用した。

B  咲子

(一)(1) 本件建物は、亡ユキが昭和二八年三月九日訴外井口菊治に請け負わせて建築し、代金を支払って原始取得したもので、同人の遺産の一部である。

(2) 亡ユキは、自己が所有していた別紙目録(五)の土地建物(以下「七〇七番地の不動産」という。)を昭和二八年訴外千葉義に四七〇万円で売却し、その代金を本件建物の建築費に充てた。

(3) 右井口が誤って太郎名義で建築確認申請をしてしまったため、亡ユキの使者として本件建物の保存登記に赴いた訴外小嶋淳道は亡ユキ名義に作成された新築申告書を勝手に太郎名義に訂正して申告し、登記も太郎名義で保存登記をしてしまった。

(4) 亡ユキは、当初は親子間のことと放置していたが、昭和三九年竜子との折合いが悪くなって後、万一を虞れて名義を訂正することとし、昭和三九年二月中亡ユキは新宿で太郎に会ってその承諾を得、更に、同月二九日二郎方で他の親族も立会の上で、太郎の承諾を得た。

(5) 太郎名義の登記の亡ユキ名義への変更については、一旦は所有権移転登記の方法を取ったが、結局太郎の保存登記を抹消して自己名義で保存登記し直すという方法に依ることとし、太郎のA(二)(2)主張の各登記をしたのである。

(二)(1) 右の事実関係であるから、亡ユキが本件建物を太郎のために建築した、あるいは太郎に贈与した旨の主張は否認する。太郎名義の確認申請も亡ユキの意思に反するもので、小嶋がした太郎名義の申告ないし保存登記は元来無効であった。

(2) 仮に無効でないとすれば、実体上の所有権は亡ユキにあり、登記名義のみ太郎に信託譲渡されたに過ぎない。

(3) 仮に一旦所有権が太郎にあったとしても、太郎承諾の上亡ユキ名義に変更されることによって、所有権は亡ユキに反還されたものである。

(4) 右の次第で、本件建物は亡ユキの死亡時まで同人の所有であったから、その死亡により現在は共同相続人の共有(太郎の共有持分ないし割合は論外として)である。

(三) 太郎の取得時効の主張事実は否認する。亡ユキが本件建物に居住していた昭和三九年三月二日以前は、太郎は亡ユキの子供として同居していたに過ぎず、独立の占有はなかった。また、太郎は本件につき自分が建築費を出捐せず所有権者ではないことを知っていた。

C  太郎

(一)(1) B(一)(1)は否認する。訴外井口菊治と契約したのは亡ユキではなく太郎である。

(2) B(一)(2)も否認する。亡ユキは七〇七番地の不動産の売却代金を子供に隠して管理し、利殖したり他に貸し付けながらそこからの回収不能に陥ったりしていたもので、本件建物の建築代金とは無関係である。

(3) B(一)(3)の小嶋淳道が勝手に保存登記をした旨の主張は否認する。同人は亡ユキの指示通りにしたものである。

(二) 太郎は本件建物建築費捻出のため、弘前市の自己の不動産の管理人であった訴外粟島に金策を依頼して、まず五〇万円を借り入れて建築代金に充てたが、その後別紙第三目録記載の不動産(以下「弘前の別の土地」という。)を処分して右借入金を返済し、残余の建築代金を支払ったものである。

第三損害賠償関係

一  双方の申立

A  太郎――「咲子は太郎に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和四三年六月一二日から完済まで年六分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は咲子の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求める。

B  咲子――「太郎の請求を棄却する。訴訟費用は太郎の負担とする。」との判決を求める。

二  双方の主張

A  太郎(請求の原因)

(一) 太郎は別紙第二目録の土地(以下「本件弘前の土地」という。)を所有していた。

(二)(1) 亡ユキは、太郎の母であるが、太郎を代理して右土地を右目録記載の各年月日にそれぞれ第三者に売り渡した。

(2) 右売却は太郎に無断でなされたもので、亡ユキには代理人としての権限がなかった。

(3) しかし、十余年前母が売却したものを、所有者である息子に無断であったからとて買受人に向って返還を求めることは――太郎と亡ユキとの関係を知って買い受けた人々の信頼を裏切ることでもあり、また表見代理成立の可能性もあって――実際上は不可能である。従って、太郎としては本件弘前の土地の所有権を喪失したことになり、その価格相当の損害を被った。

(三) 本件弘前の土地の昭和四一年度固定資産税台帳登録にかかる評価額は、別紙第二目録の最下欄記載の通りであって、その合計額は金一五四一万三五三〇円であるが、普通土地の時価は課税台帳価格の三倍を下らないから、太郎の損害は金四六二四万〇五九〇円を下らない。

(四) よって太郎は亡ユキの承継人である咲子に対し、亡ユキの不法行為によって被った損害の内金一〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和四三年六月一二日以後の年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。

B  咲子

(一) A(一)は認める。A(二)の(1)は別紙目録(二)のうち12番を除いて認める。右12番についてはB(二)の通りである。(2)は否認する。亡ユキの売却は太郎の委任に基くものであって、詳細はB(三)の通りである。(3)は争う。無断売却であれば太郎は所有権を失わず、損害は発生しない筈である。A(三)の土地価格中時価の点は否認する。

(二) 本件弘前の土地のうち別紙目録(二)の12番の土地は、1番ないし11番の土地と異なり、右土地処分のため、太郎の申立によって遺言者甲野竹男の遺言執行者として選任された訴外三浦重造が民法第一〇一五条の代理人としての地位に基いて処分したものであるから、亡ユキは全く関係がない。(次項以下は従って、1番ないし11番に関するものである。)

(三) 亡ユキは、本件弘前の土地の処分につき、太郎の委任を受けていたものである。即ち

(1) 亡ユキは、太郎が未成年の時から唯一の親権者として太郎の実印を保管し、太郎名義の財産の管理・処分行為の一切を代理していた。

(2) 太郎は昭和一九年二月四日成年に達した際、改めて亡ユキに対し、自己の実印の保管並びに本件弘前の土地を含む自己名義の財産一切の管理・処分及び右処分によって得られる売得金の使途につき被告に委任する旨の意思表示をした。

(3) 仮に明示の意思表示がなかったとしても、右成年に達して以後昭和四三年一月まで二四年間にわたり、実印の保管及び財産の管理・処分一切を亡ユキが代理して行なうことに何ら異議がなかったので、委任につき黙示の意思表示があったものである。

(4) 仮に成年に達した時には右の意思表示がなかったとしても、昭和二一年頃、亡ユキ及び太郎を含む甲野家に賦課された財産税の納付に際し、太郎は亡ユキに対し、右納付並びに自己名義の財産の処分及び売得金の使途につき一切を委任する旨の意思表示をした。

(四) 本件弘前の土地の処分は実際には太郎が昭和三一年一〇月上旬、代理人として弘前在の財産の管理・処分を委任した訴外三浦重造によるものであるが、同人は亡ユキの代理人として亡ユキの名義の土地の処分もしていたので、亡ユキが太郎の財産につき太郎の代理人としてその処分についても同人を復代理人に選任したようにも見える。しかし、仮に亡ユキの処分が太郎の委任に基かなかったとしても、太郎は昭和三七年四月亡ユキが弘前から帰京した時上野駅で、また昭和三九年二月二九日の前記親族協議の席上で、いずれも亡ユキに対してこれを追認した。

(五) 仮に亡ユキの処分行為が不法行為になるとしても、太郎の損害賠償請求権は時効で消滅している。即ち、太郎は、昭和三六年一〇月一二日、太郎の申立にかかる遺言者甲野竹男の遺言執行者として訴外三浦重造を選任する審判がなされた日以来、前記昭和三九年二月二九日の二郎方での親族協議の時までに数回本件弘前の土地の処分につき了知する機会があったのであるから、少くとも右昭和三九年二月二九日までには不法行為及び損害を知ったものであり、遅くとも昭和四二年二月末日には時効が完成したところ、亡ユキは訴訟代理人により昭和四三年八月二〇日の本件口頭弁論期日に右消滅時効を援用した。

C  太郎

(一) B(二)は否認する。右申立と選任には太郎は全く関与していないし、また、右三浦は遺言の執行について太郎の代理人となっただけで土地の処分については権限を有さなかった。B(三)(1)は認める。未成年の間は当然のことである。B(三)の(2)ないし(4)は否認する。(4)についてはC(三)で述べる通りである。B(四)は否認する。三浦には土地の管理を委任したのみで処分を委任したことはない。また追認の事実もない。B(五)も争う。太郎が損害を知ったのは昭和四一年一二月初であって、昭和四三年六月六日の本件訴訟提起時には時効は完成していない。

(二) 仮に太郎が成年に達して以後亡ユキに自己の所有する財産一切の処分権限を付与したとすれば、それは民法第九〇条に違反して無効である。

(三) 仮に昭和二一年頃財産税の納付につき太郎が亡ユキに納税及び不動産一切の処分を委任する旨意思表示したとしても、本件弘前の土地はそれには含まれない。本件弘前の土地が処分されたのは昭和三二年六月頃からであって、これを処分する必要は昭和二一年当時はなかったからである。

(四) (予備的請求原因)仮に太郎が亡ユキに本件弘前の土地の処分を委任したとすれば、亡ユキは民法第六四六条第一項に基き右土地の買主から受け取った売却代金を太郎に引き渡す義務があるところ、太郎はまだその引渡を受けていない。また、仮に太郎が昭和三七年五月頃亡ユキの右土地処分の行為を追認したとすれば、亡ユキは法律上原因なくして右土地の売却代金を利得し、太郎は、これにより同額の損害を被ったことになるので、亡ユキに対し売却代金相当額につき不当利得返還請求権がある。

右のいずれにせよ、本件では太郎はその内金一〇〇〇万円及びこれに対する前記遅延損害金の支払を亡ユキの承継人咲子に請求する。

D  咲子

(一) 仮に太郎の予備的請求原因に理由があるとしても、太郎は、B(四)既述の通り亡ユキの処分行為を追認する一方、前記遺言者甲野竹男の遺言執行者として三浦重造の選任を申し立てた時以来、度々右三浦に対してその処分行為を認めているので、売却代金引渡請求権は実際に処分行為をした三浦に対して行使すべきである。

(二) 仮に太郎が亡ユキに対して売却代金引渡請求権があるとしても、別紙目録(二)記載の土地の内1番ないし7番までの分は、7番の土地の処分の日である昭和三二年一二月二五日から一〇年間の経過によって時効消滅している。よって咲子は、訴訟代理人により昭和五〇年六月二日の本件口頭弁論期日に右時効を援用した。

(三) また仮に太郎が別紙目録(二)8番ないし11番までの分につき売却代金引渡請求権があったとしても、売却代金から三浦の要した諸費用、同人への報酬金を控除した残額についてのみである。

第四動産引渡関係

一  双方の申立

A  太郎――「二郎は太郎に対し、別紙第四目録記載の物件の引渡をせよ。訴訟費用は二郎の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求める。

B  二郎――「太郎の請求を棄却する。訴訟費用は太郎の負担とする。」との判決を求める。

二  双方の主張

A  太郎(請求の原因)

(一) 太郎は別紙第四目録記載の物件(以下「本件動産」という。)の占有者であった。

(二) 昭和四五年一月一四日二郎は太郎に対して、「母(亡ユキ)の形見分けをするから明日母のものを取りに行く。」旨連絡し、翌日午后二時太郎宅(本件建物)へ、妻咲子外数名に亡ユキの遺品を取りに行かせた際、右遺品と共に、太郎の制止を無視して、太郎の占有する本件動産を搬出させ、自宅に持ち帰らせた。

(三) 太郎はその返還を求めたが、二郎は拒絶した。よって民法第二〇〇条に基き、その返還を求める。

B  二郎

(一) A(一)は否認する。詳しくはB(二)(三)の通りである。A(二)のうち、架電したのは訴外花田菊江であって二郎ではなく、遺品受領者も右花田菊江外一名であって咲子ではない。また太郎はその搬出を制止していない。その余の主張事実は認める。A(三)は認める。

(二)(1) 本件動産は本件建物のうち玄関右手の納戸に隣る六畳の部屋にあったものであるが、この部屋は、亡ユキが本件建物に居住していた頃使用していた部屋である。

(2) 亡ユキは、太郎夫婦と不仲になったため昭和四〇年一月一〇日以後花田菊江宅や二郎宅に移り、死去の時まで本件建物に戻らなかったのであるが、本件建物から出る際自己所有の残存荷物を全部右六畳の部屋にまとめ、鍵を掛けて太郎及びその家族が立ち入れないようにしていた。そして亡ユキ死亡後は咲子が遺産管理人としてこれを保管所持していたので、太郎は本件動産を占有していなかった。

(3) また、本件動産のうち、別紙第四目録の2の経典七冊及び6の過去帳一一冊は当時運搬したものでない。即ち、右経典七冊中四冊は亡ユキが生前二郎方に持参し残る三冊は訴外花田菊江外一名が告別式の際持って来たものであり、過去帳は一冊のみであるが、やはり亡ユキが生前持参したものである。

(4) 二郎は当初これらがすべて太郎宅でその占有下にあったと誤解したため、その訴訟代理人は昭和四五年七月八日の本件口頭弁論期日において太郎が本件動産を所持したことを認める旨陳述したが、これは右の通り事実に反し、錯誤に基くから、自白は撤回する。

(三) 本件動産中、別紙第四目録の1の仏壇は戦後ユキが購入したもの、同3ないし5、7、8は訴外甲野忠一郎からユキが祭祀承継者として所有権を取得したもので、いずれも祭祀財産として亡ユキが占有していたものであるから、亡ユキの歿後は共同相続人七名の共同占有下にある。その一人である太郎は他の一人が単独占有するに至っても、返還を求めることは許されない。

C  太郎

(一) B(二)(1)は認める。同(2)(3)は否認する。二郎主張の六畳の部屋は普通の日本間で中から心張棒をかうだけであり、右の部屋と玄関とは鎖錠できたが、その鍵は太郎も所持していた。右の部屋は昭和四一年末、太郎の子供の勉強部屋であって、亡ユキの占有は失われていた。B(三)の亡ユキの占有は否認する。

(二) B(二)(4)の自白の撤回には異議がある。

第五証拠関係《省略》

理由

第一中間的ないし派生的争点の判断

A  咲子の適格に関する中間の争

一  咲子が亡ユキの相続財産に関し、適法な相続財産管理人であることは当事者間に争がない。これは遺言により相続人として太郎が廃除され、その審判がまだなされていないための措置であるから、咲子は将来特定されるべき相続人の法定代理人としての資格において、亡ユキを当事者として係属していた訴訟を承継することができると解される。

二  この相続財産管理人の権限は民法第二七条ないし第二九条の管理人のそれと同じであるから、同法第一〇三条所定の権限を超える行為をする場合には家庭裁判所の許可を得ることを要するが、亡ユキを当事者とした本件の二つの訴訟のうち、六二九〇号事件については、損害賠償請求の被告として訴訟を承継するのであるから、同法第一〇三条第一号の保存行為として取り扱ってよいことは言うまでもない。

三  多少疑問のあるのは、再審事件の方であるが、原訴訟は亡ユキを被告とする所有権確認・抹消登記手続請求の訴訟であって、その判決の確定により亡ユキの相続財産が減少することとなったのであるから、再審の訴を以って不服を申し立て相続財産への復帰を所期するのはやはり保存行為の範疇に属すると言うべきであるのみならず、本件では咲子は、相続財産管理人として再審の訴を提起するわけでなく、既に亡ユキが提起した再審の訴を承継するだけであり、しかも後述のように再審事由の存否についての審理を超えて、亡ユキを被告とする原訴訟の判決の正当か否かという点が審理されていることでもあるので、その意味でも咲子の適格を背定すべきである。

B  書証文書に関する総括

一  提出の可否に関する中間の争

(カ)甲第二二号証及び(ワ)乙第一〇号証以下の提出が時機に遅れているか否かという点はさておき、その反証のため改めて人証の取調をするなど訴訟の完結を遅延させたということはなかったのであるから、却下の申立はこれを排斥し、これらも認定の資料とすることとする。

二  文書成立の認定《省略》

第二事案の背景

A  本件で併合された三箇の訴訟は事案の背景を共通し、実際上は一箇の紛争が複数の訴訟となって係属していると言いうる面があるので、まず、この背景的事情を認定することとする。(なお、各項末段に証拠原因となった証拠方法を掲げたが、殆ど全体に共通するものとしての竜子・咲子・太郎・二郎四者の各供述は一々の挙示及び牴触部分あることを述べての排斥の記載を省略し、また、争ない事実につきその旨言及することも省略した。従って挙示したのはそれ以外の証拠であることを断っておく。)

一  終戦以前の甲野家

1 甲野家は弘前市で酒屋などを営業し、市内・市外に広い土地を所有していた資産家であった。亡ユキの夫忠義は、婿養子で入った父忠助をとび越えて家督を相続していたが、昭和二年一二月一〇日死亡した。

2 忠義とユキとは、どちらも再婚で、それぞれ先の配偶者との間に実子をもうけていた。ユキの先夫乙山春夫は昭和一五年死亡したのであるが、甲野家の子供達が母の実子が青森県にいることをずっと後年まで知らずにいたことから見て、ユキは離婚後乙山家との交渉は一切絶っていたようである。

3 未亡人となったユキは、昭和四年、実子の菊江・太郎・二郎、先妻の遺児であるよし・竹男、忠義の祖母りんの六名を伴って上京し、七〇七番の土地約五〇〇坪を購入し、翌五年には約九〇坪の建物を新築して、東京での新生活に出発した。

4 忠義の死後家督を襲った竹男は病弱であった。同人は昭和一〇年の死に先立つ四年前の昭和六年に公正証言遺言の形式を踏んで、弘前市内の不動産を母ユキに、市外の不動産その他動産・債権の全部を弟太郎に遺贈し、遺言執行者としては叔父梅男を指定した。

5 昭和九年よしが、昭和一〇年竹男が、昭和一五年りんが死亡し、一家は四人となった。家督を相続した太郎もまだ子供で、ユキが相談相手としたのは、昭和七年から数年間住込みの家庭教師をしていた小嶋淳道及び三越の女店員で当時亡ユキと知り合い、昭和一三年以後特に親しくなった入江イシの両名であった。

6 弘前にあるユキと太郎との財産は、甲野家の大番頭であった粟島清吉が差配し、地代(賃料ないし小作料)を取り立てて公租公課を支払い、残りを東京に送金して来た。一家の生活は、華美ではなかったが、右の送金分で十分暮しが立ち、中産階級としては比較的ゆとりのある方であったが、ユキは昭和一八年頃には既に家屋が大き過ぎると感じていたようである。

二  戦後、二郎・太郎の結婚まで

1 太郎は昭和二〇年九月東京大学理学部を卒業して、理工学研究所に入所し、昭和三一年二月同所から科学技術庁の航空技術宇宙研究所に移って現在に至るまで、理工学研究者としての仕事を続けている。

二郎は昭和二〇年の復員後に健康を害したこともあって卒業が遅れ、昭和二七年三月の東京大学文学部卒業後二年程浪人してから日本放送協会に就職し、今日に至っている。

菊江は、昭和一九年花田雄一に嫁した。一旦家を離れて後も、昭和二一年疎開先から帰って以後数年間一家中で七〇七番の建物に寄寓していたことがあるが、後記七〇三番地への移転当時は花田家は既に浦和に居を構えていた。

2 戦後甲野家の家計を切り盛りしたのはやはりユキであった。太郎は公務員としての給料を母に全部渡し、家政には容喙しようとしなかった。二郎はまだ学生であった。生計費は高騰したし、財産税も太郎名義・ユキ名義でかかって来たが、ユキは、主として弘前の土地を処分することでこれらの支払を済ませたようである。処分は粟島の手を借りたものであろう。利殖を図っての小金の運用貸付もしたようであって、そのうち、石杖某という借手には踏み倒されるなどのこともあった。(もっとも、保全経済会のような機関に相当高額の出資をして失敗したという太郎の供述は、十分な裏付けがない。)太郎名義の債権・動産の類も、この時期に一家の生計のため換金費消されたものと思われる。

3 ユキは、弘前の土地の処分については、自分所有名義のものも太郎所有名義のものも区別しなかったようであって、この事実は、太郎の土地の処分が早くも昭和二一年に始められ、昭和二三年から昭和三〇年までは逐年何筆かが処分されていることで示されている。

4 ユキは一方で経費の節減を計り、入江イシに七〇七番の土地建物を売ってもっと小さな家に移り住む相談をし、イシの親戚の大工井口菊治を紹介され、同人の口利きで、七〇七番の土地建物を四七〇万円で売った。その契約書は昭和二七年一〇月一五日付で作成されている。

5 ユキは本件建物の敷地となった七〇三番の土地(約一二八坪)を既に昭和五年に入手していたので、ここに新住居を建築することにし、右井口に請け負わせた。これが本件建物であるが、その間取は、将来太郎が結婚し、母ユキと同居することを前提としてユキと太郎とが相談して設計した。井口の見積書は昭和二八年三月一六日作成のものがあり、手付金と見られる三〇万円の領収証は同月二〇日付である。なお、建築確認申請は同年四月六日付で太郎の名義でなされた。

6 太郎はこれに先立ち弘前に行って粟島から五〇万円を借用した。この弁済は、前記太郎名義の土地の処分金から充当されたと思われるが、いつ処分された分が充当されたのかという点は明確にすることができない。

7 新築の費用は合計一一七万円余で、昭和二八年中に竣工し、ユキ・太郎・二郎の三人が本件建物に引き移った。

8 二郎は本件建物に移転後間もない昭和二八年一二月、東京文理大卒の咲子と結婚して家を離れた。本件建物敷地からほど遠からぬ○○町△△△番地という妻咲子の実家所有の土地を借りて、その上に公庫からの融資で新築し、現在も居住している。

9 二年後の昭和三〇年一二月、太郎は日本女子大卒の竜子と結婚し、本件建物に迎え入れた。

三  嫁姑の不和から亡ユキの家出まで

1 太郎の結婚後は、家計は竜子が夫の給料で賄うようになり、ユキの食事の世話もしたが、小遣は渡さなかった。この間ユキは弘前の土地を処分して適当に費消していたものと考えられる。

2 昭和三一年九月弘前の粟島が死亡した。太郎は同年一〇月弘前に赴き、従来から粟島の甲野家の不動産管理を手伝っていた訴外三浦重造に初めて対面し、以後の管理を依頼した。

3 二郎は、甲野家の財産が自分に来ないことに不満で酒の力を借りてそれを訴え、昭和三二年頃三〇万円を貰う代り以後は請求しない旨の念書を書いたことがある。ただし、右の金がユキから出たか太郎から出たかは明確でない。

4 さて、竜子は、姑であるユキとの折合いが必ずしも円満ではなく、昭和三二年初秋から実家に帰ったまま太郎と別居する状態になった。昭和三四年五、六月頃以後また本件建物に戻って正常な家庭生活に復したが、その頃ユキは太郎夫婦が他に転居するよう申し入れたことがあった。

5 弘前の太郎名義の土地は、昭和三五年までに全部換価処分された。唯一筆本件弘前の土地12番だけは竹男名義のまま残っていたが、竹男の指定した遺言執行者梅男は既に死亡していたので、新たに遺言執行者を選任する必要を生じた。昭和三六年九月頃太郎は小嶋と同道して東京家庭裁判所に出頭し、三浦を選任する手続をした。昭和三七年四月右12番の土地も換価された。ユキは自ら弘前に赴いてその手続をしたが竜子はそのような甲野家の家産の状況については夫からも聞かされていなかった。

6 ユキは、先にも太郎夫婦に立退きを申し入れていたが、弘前に換価すべき不動産がなくなった段階で、改めて本件建物敷地を売ることを考えたようである。他方、竜子は、結婚当初聞かされていた弘前の太郎の所有地がユキの手で処分されているのではないかという疑念を抱くようになり、嫁姑の仲は一層険悪化していった。

7 昭和三八年六月竜子は石川善松に依頼して弘前の太郎名義の土地がどのように処分されたかを調査させた。三浦はこの調査が誰の依頼でなされたかがはっきりしなかったので、同年七月上京して箱根に宿泊した時、太郎に電話で照会したことがあった。このようなことから、太郎・竜子間の信頼関係も一時は崩れかけたように思われる。

8 昭和三八年八月、本件建物の家屋新築申告及び保存登記が太郎名義でなされた。この手続は小嶋が代行した。

9 昭和三九年二月上旬、七〇七番の土地の譲渡所得税が滞納されたままだったため、区役所から公売処分の警告文書がユキ宛に届けられ、これを竜子が知ったことから、竜子をめぐる家庭内の、また親族間の不和が更に募り、同月二九日二郎の宅に、ユキ・太郎・菊江らが集まり、咲子も交えて、嫁姑間の、また夫婦間の調整や万一離婚に至った場合の竜子の処遇や財産分与問題などについて話し合った。

10 昭和三九年三月、本件建物の名義は、太郎からユキに移った。その手続はユキが太郎の実印を持ち出して行なったが、咲子が同行して補助した。

11 昭和三九年四月、竜子は本件建物の名義が変えられたことを知り、ユキと激しく口論し(ただし、竜子が暴力を揮ったということは、《証拠省略》があるけれども必ずしも心証を惹かない。)、夫太郎にも訴えた。この段階以後太郎・竜子は夫婦としての同一歩調を回復したようである。

12 昭和三九年七月、ユキは、再び太郎の実印を持ち出し、咲子の輔佐の下に、本件建物の所有権関係の諸登記を錯誤を原因として抹消し、改めて自分の名義で表示登記及び保存登記をし直した。

13 昭和四〇年一月一〇日――咲子主張のように降雪中であったとは考えられないが――ユキは竜子と喧嘩して本件建物を離れた。太郎が付き添って浦和の菊江の家に送り届けたが、一週間位してユキは○○の二郎の家に移り住み、死去の時までここに住んだ。(もっとも住民票の記載は最後まで本件所在地に置かれたままであった。)

四  その後の紛争経過

1 昭和四〇年七月二四日、ユキは太郎を相手取って、本件建物から他に転居するように求める家事調停の申立をした。

2 一方、太郎夫婦は、山本孝弁護士に訴訟代理を委任して、昭和四〇年七月三〇日本件原訴訟を提起し、同年一一月一二日結審の上、同年一二月三日ユキ欠席のまま勝訴判決を得た。

3 この事実が判明して先の家事調停は昭和四一年三月不成立に帰し、その際、ユキの代理人渡辺卓郎弁護士の申入れで、太郎は右の判決が無効である旨の念書を作成したが、結局同年一一月一六日本件再審訴状が提出された。

4 同年一二月、太郎は伊沢弁護士を委任して咲子を告訴し、また、弘前の所有地の処分状況調査を同弁護士に依頼した。同弁護士は株式会社調査センター社長の大野正夫にこれを調査させ、同人は三浦に面会して太郎から差し出された書簡三通を預った。

5 右調査の結果に基いて、昭和四三年一月、太郎はユキに対する損害賠償請求権を被保全権利として本件建物の敷地である七〇三番の土地を仮差押した。同年二月、右仮差押決定に対して異議の申立があり、また同年六月六日、右仮差押訴訟における起訴命令に応じて本訴訟として本件六二九〇号事件が提起された。

6 昭和四四年四月、ユキと咲子とは太郎を告訴した。

7 同年一一月二七日、ユキは病院で死亡したが、それに先立ち同月二二日、相続人として太郎を廃除する旨の遺言をした。

8 昭和四五年一月一四日、本件建物内に残置されていた亡ユキの所有物の引取に絡む紛争から、同年五月二一日、本件五〇三〇号事件が提起されるに至った。

B  以上年代を追って眺めて来た一連の事実関係から窺える紛争の原因は、一言で言えば、戦前戦後の相続制度の変遷に由来する「個人所有名義の家屋」に対する相異なる法意識の相克であるが、人と人との争いとして見るとき、数えられるのは次の三つである。

一つには、女手で三人の子を育て上げた実績と豊富な弘前の財産の処分換価によって支えられていた亡ユキの家庭内における強い地位が、竜子と結婚して以後太郎が次第に自立性を獲得して行ったこと及び弘前の土地がすっかり処分されてしまったことから大きく揺いだため、嫁姑の争が心理的のみならず、経済的にも激化したことである。二つには、戦前に家督相続をした太郎には戦後の新民法下に相続した同年輩の者より家督相続人としての意識が強かったのに対し、二郎には戦後の均分相続的な意識(このことは弘前の土地を自分も相続した趣旨の二郎の供述――調書二二六項――に徴しても明らかと思われる。)があったことである。三つには、そしてこれさえなければ異なる局面の展開もありえたと思われるのは、兄嫁・弟嫁の関係にある(年令的には逆であるが)竜子と咲子との心理的な確執である。これらが相錯綜して、いずれも最高学府を卒業し相当の社会的地位を占め、和解室で個別に接すればそれぞれに、良識と節度とを示す人々の間に強い不和をもたらし、深刻な不信感と解き難い葛藤とを形成してしまったものと見られる。

事案への右のような認識の下に、以下各争点の判断に及ぶこととする。

第三再審事由の存否

一  原訴訟の判決確定までの経過及び訴訟書類の竜子による受領の事実は当事者間に争がないが、竜子による受領があったとしてもユキに対する適法な送達があったとは言えない。太郎は、民事訴訟法第一七一条第一項を云々するが、後判示(第六、一1)の通り仏壇のある部屋へのユキの占有は同人が本件建物を離れて後は失われ、以後は太郎の占有に移ったものであって、ユキは住民票の記載にかかわらず、居住していたとは認められないのである(第二、A三13参照)。従って竜子を同条にいう「同居者」と見ることはできないし、もとより亡ユキが当該訴訟書類を読んだという証拠もないのである。

二  先に第二、A三、四の各段で見た事情の下では、右の竜子の受領は亡ユキの氏名の冒用に帰し、しかも原訴訟の判決の効力は被冒用者である亡ユキに及ぶのであるから、民事訴訟法第四二〇条第一項第三号に準じて再審事由の存在を肯定することができる。

三  よって、原判決は取り消されるべきものとして、原訴訟の手続を復活させたが、太郎は民事訴訟法第四二八条の適用を主張したので、以下これを審理した結果を述べる。

第四原判決維持の理由の存否

一  第二、A三8・10・12のような経過で太郎所有名義の本件建物が亡ユキ所有名義に変えられたのであるから、問題は太郎がユキに自己の実印の使用を許したか否かにかかることになるが、これを認めるに足りる証拠は存在しない。咲子は、実印の使用はもとより、むしろ名義変更自体について太郎が承諾していたと主張し、咲子及び二郎の各供述中にはこれに副う部分があるが、採用できない。二郎の供述中には、昭和三九年二月二九日の会合で太郎が竜子と離婚することとなった場合の竜子からの慰藉料請求を危惧し、太郎名義を亡ユキ名義に改めることにした旨の部分があるが、これは、仮にそのような合意があったとしても、それ自体虚偽の意思表示を通謀したことになって無効というほかない。

二  もっとも、右二郎の供述には、そもそも太郎名義の登記が間違ってなされたものだから、という趣旨の部分がある。そこで遡って、小嶋が勝手に亡ユキ名義になされるべき新築申告及び保存登記を太郎名義にしてしまった旨の咲子の主張の当否について案ずるに、確かに《証拠省略》によれば、土地家屋調査士小川文平が代理人として作成している本件建物の新築申告書の申告者名義は一旦「甲野ユキ」と記載された下に文字を抹消して「太郎」と訂正してあることが認められるけれども、小嶋自身の証言によれば、代書人小川が敷地所有者が亡ユキであったため間違ったのを訂正した旨の経緯が認められ、小嶋としては当初から太郎名義にするつもりでいたことが明らかである。もっとも第二、三のような経過の後、昭和三八年八月に至って亡ユキが小嶋に新築后一〇年間そのままになっていた本件建物の保存登記手続を依頼したという事態からは、亡ユキとしては自己名義の保存登記を希望したものと推測されるので、これは小嶋の亡ユキが当初から太郎名義の登記を依頼した旨の供述と牴触するところがあるが、小嶋の証言によれば、同人はかねてから、弘前の太郎名義の土地が処分されてしまった以上本件建物だけは太郎名義として登記しておくべきであるとの見解――そして、次段判示の通り、この見解は十分に合理性あるものである――を持し、その旨亡ユキに話していたことも認められるので、かかる説得の結果亡ユキの承諾の下に太郎名義の登記をしたのを前示のように当初からの依頼のように供述したものと理解できる。この小嶋証言につき咲子側は《証拠省略》によって同証人の偽証を示唆するのであるが、ある証人が証人尋問の前に一方当事者との債権債務を清算することは必ずしも偽証に結びつくものではなく、真実を語ることによってその当事者に不利となる場合にもありうることであるから、小嶋の供述の趣旨を先のように解する当裁判所の心証を左右するものではない。

三  もっとも、それは、先の小嶋の見解に合理性があると見るから言えることである。そこで、問題はその見解の当否に、更に遡って、そもそも保存登記以前の段階で本件建物所有権者は、太郎であったか亡ユキであったかに帰着する。これに関し、咲子は、(カ)甲第一〇号各証、第一一号各証を提出し、入江イシの証言を援用して亡ユキが所有者であったとの主張を裏付けようとする。そして、(カ)甲第一〇号証の三は、井口と契約したのが亡ユキであったことを示しており、従って、同第一一号各証の「甲野様」も亡ユキを指すと見るべきもののようである。また、建築費の点については、七〇七番地の不動産の売却代金が本件建物の建築資金になったという咲子の主張はイシの証言や先の第二A4・5の認定を綜合しても必ずしも十分に心証を惹くものではないが、さればといって完全に否定しうるものでもなく、蓋然性としては背定せざるを得ない。

しかし、先に第二Aで仔細に見た戦前・戦後の甲野家の有様、殊に、太郎を代行して亡ユキが諸般の事務を処理するのに対して太郎が自立性を主張し始めたのは竜子との結婚後であると認められることからすれば、井口との契約上の名義如何も、建築資金の捻出先如何も決定的な証拠となりうるものではない。

判断の帰趨を定めるのはむしろ、甲野家の人々の間で、誰の所有と観念されていたかということであろう。当裁判所は、この意味では、所有者は太郎であると言わざるを得ないと考える。蓋し、太郎は戦前既に家督相続していた者として亡ユキの目には他の子女とは別格の者であった筈であるし、現に本件建物の新築に際しても母ユキとの同居とその扶養とを当然の前提として間取を設計していたのであり、その建築資金の点も、七〇七番地の不動産自体、昭和四年という購入時期からみて、亡ユキの個人資産というより甲野家の家産が亡ユキ名義で取得されたものと見るべきであるから、その売却代金が本件建物の建築資金に充てられたとしても、当時の甲野家の人々の意職において、本件建物を太郎の所有と見るのに妨げとなったとは考えられないからである。

そして、このように新築当時太郎の所有として争なかったからこそ井口は、亡ユキから請け負ったにかかわらず、建築確認申請は太郎名義として怪しまなかったのであろう(この申請自体当時のユキの意を体したものと考える余地もある。)し、前示小嶋の見解に合理性を認めうるというのもそこにある。戦前からの甲野家の知人である小嶋としては、甲野家の家産の処分経過を熟知していただけに、太郎と不和になった亡ユキが率然本件建物を自分名義に保存登記したいという希望を表明したことに対しては抵抗を感じたに違いないからである。

四  当裁判所は以上のように考える。そうすると、その余の太郎の主張を判断するまでもなく、本件建物は太郎の所有であり、亡ユキ名義の保存登記は実体に即しないと言うべきである。従って、原訴訟の判決はその結論においては正当であったのであるから、民事訴訟法第四二八条の適用を求める太郎の申立は理由がある。

よって、原判決はその確定に至るまでの手続には瑕疵があるけれども、その結論は維持すべきであるので、再審請求はこれを却下することとする。

第五損害賠償請求の当否

一  太郎が本件弘前の土地を所有していたこと、その内別紙第二目録12番を除く分を亡ユキが処分したことについては当事者間に争いがない。右12番の土地については、第二A三5の認定の通り、太郎が竹男から遺贈された土地の処分に関して三浦を遺言執行者に選任することに直接関与していた以上、太郎の供述するように選任が必要となった経緯やその法律的意味を一向理解しないままであったとしても、また実際の処分に際しては亡ユキが弘前に出張していたとしても、なお、右12番の土地の処分は太郎が三浦に命じたものとみて差支えないから、本件損害賠償請求の対象から、右12番は除外すべきこと明らかである。

二  そこで、本件弘前の土地中1番ないし11番の処分について太郎から亡ユキへの委任があったか否かを案ずるに、明示の委任の意思表示の存在はこれを認めるに足りる証拠がない。

黙示の意思表示についてはしかく端的に否定しえない。蓋し、第二Aでつぶさに見たような亡ユキの処分行為は、少なくとも昭和三〇年頃までは、甲野家の家産を甲野家の家計のために使用するという大義名分に支えられていたと見て差し支えなく、その限りでは本件弘前の土地をその一部とする太郎名義の土地の処分について、太郎は成人後母ユキに対してその処分を黙示的に委任していたものと見て差支えないからである。

しかしながら、本件弘前の土地処分はすべて昭和三二年以後に属するところ、前示の通り太郎の気持は甲野家の家産が甲野家の家計のために使用されるという大義名分の存する限りにおいて自己名義の所有土地が母ユキによって管理処分されることを容認していたと言えようが、昭和三〇年末の太郎の結婚以後、家計の責任が竜子に移ってからは、あるいは遅くとも一旦別居の後竜子が戻った昭和三四年中期以後は、一般論としてそのような大義名分は存しなかった筈であるから、本件弘前の土地の処分については必ずしも右のような黙示の承諾を云々することはできない。従って亡ユキによる処分は所有者である太郎に対して不法行為を構成する可能性があるとしなくてはならない。

三  そこで、順序としては太郎の追認等の主張について判断すべきであるが、咲子は、仮に亡ユキの行為が不法行為となるとしても、太郎の損害賠償請求権が時効で消滅していると論じているので、先に進んでこの時効の成否について考察することとする。

問題は、亡ユキによる本件弘前の土地の処分を太郎が知ったのは何時かということである。前示の通り12番の土地について遺言執行者の選任をした昭和三六年九月には、既に1番ないし11番の土地はすべて処分されたのであるが太郎の供述によれば、この時点ではまだ弘前の土地の処分情況について十分な認識がなく家庭裁判所からの呼出に関して亡ユキに訊ねても十分な応答を得られなかったという経緯も認められるので、右の日時にはまだ太郎は了知していなかったと見るほかない。

また、昭和三八年六月の石川善松の調査は竜子が太郎に隠して依頼したもので、その調査結果を竜子が太郎に話したということは、考えられないことではないが、証拠上確定できないので、この時点に了知したとすることもできない。

他方、太郎は、亡ユキによる処分を知ったのは昭和四一年一二月であると主張するが、これは仮差押の準備としての大野正夫による詳細の調査であって、なるほど「各筆がいつ何人に売却されたか」はこの時点で初めて明らかになったと言うべきであろうが、ここで問題とするのはそこまで詳細な知識でなく、亡ユキにより本件弘前の土地が処分され終ったこと一般であるから、右時点に初めて了知したという太郎主張を採用することもできない。

当裁判所は、少なくとも昭和三九年二月二九日の二郎宅での会合で了知されたものと考える。この会合では、財産分与等にからんで太郎名義の財産のことが話題に上ったものであり、この時本件弘前の土地は既に全部処分されてしまったという情報を太郎が知悉しなかった筈はないからである。

そこで遅くともこの時から三年を経過した昭和四二年二月二八日には損害賠償請求権の時効が完成したものであり、本件で咲子がその援用権を有することは言うまでもないから、咲子の右時効援用により本件損害賠償請求権は昭和三九年二月二九日に消滅したものである。

四  よって、その余の双方の主張について触れるまでもなく、太郎の損害賠償請求は理由がない。(本件弘前の土地の処分につき亡ユキへの委任を認定しない以上、予備的請求原因については言及するに由ない。)

第六動産引渡請求の当否

一  太郎が本件動産の占有者である点については、自白撤回の問題が存するので、まずこれを判断する。

1  まず、問題の仏壇のあった部屋及びこれに接続する納戸の両室が本件動産搬出当時誰の占有にあったかという点であるが、(ワ)甲第七号各証及び竜子の供述によれば、太郎の占有を肯定するに十分である。二郎は、亡ユキの独立の部屋としての占有を継続するための鎖錠等について主張し、咲子の供述にはこれに即する部分があるが、竜子の供述によれば、電気のブレーカーがこの仏壇の部屋にあるため停電の時鎖錠を破ったことがあったのが認められ、現にピアノ、本棚などもあって、子供部屋として使われていることも認められるのであるから、亡ユキが本件建物を去って後も右の両室に独立の占有を有したことは認めるに由ないのである。従って、この室内に存した本件動産についても、亡ユキの家出後はその占有は太郎にあったと認められる。

2  次に、経典と過去帳の員数については、二郎の主張を認めるに足りる証拠がない。

右の通りであるので、本件自白の撤回はその要件を欠くというほかなく、撤回は許されない。

二  次に、動産搬出までの経過についても争いがあるが、遺品受領に行く旨の電話をしたのは二郎でなく花田菊江であったと認められるほかは、二郎の主張を認めるに足りる証拠はなく、却って、遺品受領については咲子が積極的であったこと、仏壇搬出に際しては咲子が太郎ないし竜子の了解なしに自動車に乗せて行ってしまい、竜子がその直後にそれに気付いて残っていた花田菊江らに抗議したことが認められるのである。

三  二郎は更に、仏壇は戦後亡ユキの購入にかかること、その他同人が祭祀承継者として占有していたものがあることを主張するが、同人が祭祀承継者であることを認めるに足りる証拠はない。戦前の旧民法の下においては祭祀財産は家督相続の特権に属したのであり、現行民法がこれを一般相続財産の埓外に置くのは家督相続の制度を廃止したためである。本件において太郎は戦前に家督を相続したことによって当然に祭祀承継者となったものであり、外面上亡ユキが祭祀を営んでいたとしてもそれは太郎を代行したものに過ぎない。(ワ)乙第三号ないし七号各証は、(ワ)甲第一号ないし第六号各証と対照して、右認定を左右するものではない。また本件動産中1番の仏壇が亡ユキの購入したものであったとしても、それは祭祀財産の購入につき太郎を代行したに過ぎぬと見るべきである。従って、本件動産が亡ユキの遺産として相続人らの共同占有に属するという主張も到底採用しえない。

四  二郎が本件動産を占有し、返還に応じないことは当事者間に争いがない。

五  以上を綜合すれば、民法第二〇〇条の占有回収の訴の要件を満たすから、二郎に対してその返還引渡を求める太郎の請求は理由がある。

第七結び

以上各節の結論を綜合し、咲子の再審請求はこれを却下し、太郎の咲子に対する損害賠償請求はこれを棄却し、二郎に対する動産引渡請求はこれを認容し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九二条を、仮執行の宣言については同法第一九六条を各適用して、主文の通り判決した次第である。

(裁判長裁判官 倉田卓次 裁判官 井筒宏成 西野喜一)

〈以下省略〉

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